リオネル・メッシとナプキン契約書

サッカーというスポーツが生まれてから
歴史上ベストプレーヤーと言っても過言ではないリオネル・メッシ。
アルゼンチンのロサリオで、鉄工所で働く父と清掃員のパートをしていた母のもとに三男として生を受ける。
サッカーを始めたのは5歳の時で、7歳の頃には地元の有名クラブへ移籍するなど早くも頭角をあらわしていた。

ところが11歳の時に成長ホルモン分泌不全症と診断され身長が伸びないなど発育に問題を抱えていることがわかった。治療費が年間1万2000ユーロ(約190万)かかり医療保険で最初は賄うもののその期間も終了し、その後CAニューウェルズが可能性を見出し一部の支払いを負担していた。しかし次第にクラブも支払いが滞り父ホルへ・メッシは解決策を探す必要があった。
両親はあらゆる手段を尽くしスペインに住んでいた親戚を通じて
FCバルセロナのテストを受けることになった。

クラブ側の評価は上々であったが最終決定は当時のディレクターであったカルロス・レシャックにあり出張中であった彼の帰国を待つ必要があった。
運命の日はやってきたレシャックが試合を見るやいなや「すぐにでも契約だ」とメッシに対する評価は非常に高かった。
正式契約へ向けて話が進むと思われメッシと父親は喜びアルゼンチンへ帰宅したのだったがそう簡単に進まなかった。
決定の段階に進むとクラブ内で不安の声が上がったのだ。ホルモン注射の治療、外国籍、両親も移住させて仕事を紹介する必要があるなどさまざまな懸念があったのだ。
父親は痺れを切らし契約条件を提示しないのであれば他のクラブへ行くと強く迫ったのだ。
レシャックは
「あの少年だけは絶対に逃すわけにはいかないと私はわかっていた。そこで私は近くにあった紙ナプキンに書いた。『私、チャーリー・レシャックはオラシオ・ガッジオーリとジョゼップ・マリア・ミンゲーリャの同席する場において、同意した条件の下でリオネル・メッシと選手契約を結ぶことをこの場に誓う』と。

その後レシャックはメッシが抱える問題すべてを解決し、クラブ全体を説得するために大変な努力をすることになった。
メッシは特別に素晴らしい才能に恵まれた少年だという報告書も書いた。
最終的に契約が最終合意に達したのだ。

ここからメッシの伝説が始まっていく。

もし親がメッシの可能性を信じていなかったら
もし親戚がバルセロナへ連絡をとっていなかったら
もしカルロス・レシャックが熱心にクラブを説得していなかったら
いまのメッシは存在しなかった。

世界にはたくさんのスーパースターがいます。
メッシもそうですがスーパースターの裏には
それを信じてサポートする人が必ず存在します。
手を差し伸ばす存在がいます。
Askidもその一端を担えればと思い日々取り組んでまいります。